成長の足跡

自分の気質が元々のんびりしているせいか、あの人はよく愚痴をこぼす、と思うことが多い。

一緒にいると、ちょっとの事で琴線に触れるらしく、それが愚痴になる。

言ってる事は正論なのだけれど。

 

そんな些細なことで、いちいち反応してしまう気質って疲れないのかな、

もっと緩くおおらかに捉えれば、心理的負担も軽くなるのに、とつねづね思ってた。

でも、本当によく細かいところまで見てるし、それに反応するということは感受性が高いのか、と最近気づいた。

 

なぜあの人との会話を一番楽しんでいるかというと、

自分が思った事に対して、真面目に応えてくれるから。

感動したり、共感したり、心の動きに応じてこぼれおちた言葉も

この人だったら、ちゃんと受け止めてくれるからと、安心して話せる。

 

私は感覚的・情緒的な部分で物事を捉えて、無理やり言語化するのだけれど

そんな言葉にならない言葉も、がっちり受け止め、論理的に解釈してくれる。

 

今、書きながら思ったのだが、かなり難易度が高い技術、ではなかろうか…。

今更ながら、相手の感受性の能力の高さと、それをまとめる言語解析能力との

バランス感覚が長けていることに、感謝。

 

それだけ感受性が高いということは、気配り上手で助けを求める人に頼られたら全力で尽くす。

その分人より気苦労が多く、人よりストレスも溜まりやすい。

更に言えば、人よりより傷つきやすくて、頭の回転もいいだけに、余計なことまで考え、その分、傷も深い。

 

どーでもいいことはすぐ忘れるらしいけど、自分の核心に触れることは、もうトラウマレベルで、

花粉アレルギーのごとく敏感に反応し、未だ傷は癒えず、かさぶた状態のまま、蓋をしてるだけ。

 

感受性の高い人は、他人の感情が敏感にわかるので、相手が嫌な反応をしていると良くわかる。

それで他人を傷つけてしまった自分を責める。

そして

「自分の言いたいことが言えなくなる」

 

太宰治の言葉を思い出す。

「率直なんてものは、他人にさながら神経のないもののように振る舞うことです。

他人の神経を認めない。

だから、あまりに感受性の強い人間は、他人の苦痛がわかるので、容易に素直になれないのです。

率直なんていうのは、暴力に等しいのです。」 

 

あれだけ感受性が豊かな人だから、きっと、人のずるさも、面倒なところも、複雑な人間関係のしがらみも、

そこから派生する利害関係も、人間の悪い部分すら浮き彫りになって、

見たくないところまで見えて、感じてしまうのだろう。

そして自分の受けた傷はより深く、悔しく、悲しみも強いのではなかろうか。

 

でも、自分の受けた傷も相手の痛みも、より理解し受け入れているので、その分人に対して優しく強くなれる。

その経験がその人の内面を広げたり深めたりして、人を支える優しさにつながったり、

弱さを受けとめられたりする形で、自分自身も成長しているのだろう。

経験からくる想像力、人を思い遣る創造力。

 

その底辺が低ければ低いほど、嬉しい時に感じる感動は倍の大きさなんだろうな。

そういう人の喜怒哀楽を悩み、葛藤しながらも、きちんと受け止めて、

周囲に還元できている、人間味に溢れる魅力的な人だ。

有言実行・猪突猛進タイプだから更に磨きがかかる。 

 

「少しでも多くの人の幸せにふれて、自分を成長させ、

自分の目標への達成率を遂げるのが「人生ツアー」の本質」

 

あの人もまた、自分を成長させる為に、

本質的な目標値が高いから、より達成率を上げる為の必要不可欠な素養を持って生まれたのかな。

だから少しでも多くの人の幸せに触れられることができる

 

感受性が高くて大変だな、と思っていたけれど

実はその分、豊かな感性をフル活用して、日常を深く堪能し、楽しい人生を送っている

 

「感受性が豊かな人は人生を楽しめる」 

 

それがあの人をとりまく雰囲気にでていたから、私があの人に対して一番に惹かれた要素だったのかと気づいた。

 

きっと、あの人が感受性が高い素養を持っている本当の訳は、

人一倍、幸せを感じたかったんだろう。

そして、それを享受し、人生を謳歌している。

まだまだ愚痴は多いけれど、それもあの人の成長を形成する上での、経緯の足跡なのだ。

 

慎重派の私が、あれだけ短期間のうちに、まるで誰かから背後から突き落とされたように、

あの人に惚れた訳がようやく腑に落ちた。

そりゃあ、惚れないわけがない。

…あの人が振り向くかはわからないけどね。

 

でもこんなに惚れた相手が目の前にいて、一緒にいてくれる。

「惚れた相手を惚れ抜く」

こんな貴重な体験をしないわけにはいかない。

 

たかがこれから自分が受ける傷の大きさを危惧して、相手の反応をみながら思いを小出しにする、

そんなちゃちな気持ちの駆け引きなんて、こんなに惚れた相手に対して失礼じゃないか。

自分自身に対しても。

 

そういう関係ではなく、もっと相手の幸せを喜び、笑い飛ばし合いながら、お互いの道を進んでいきたいのだ。

 

改めて今の気持ちをちゃんと表明して、受け入れてくれたら、リミッターはずそう。

人生という旅路へ

これを見た時、ヘミングウェイの「老人と海」と同じ感慨をもった。

絶望の淵から見える「生きる信念」。

最悪の試練と逆境に立たされても、人間は行動次第で敗北を勝利に変え、

人生に意味を見出すことができる、希望への道。

 

絶望の渦中にいるからこそ、新たな人生の門出を迎える人々へ「伝えたい」という思いが、

他者を突き動かすエネルギーに変わる。

 

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)
より抜粋

このメッセージに、2週間前、

「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。
その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。

しかし、 今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、
濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。
これから述べることは、あま りに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。
私は躊躇した。

しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、
どうしても以下のことを述 べておきたいと思う。
私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

諸君らのほとんどは、大学に進学する。
大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。
大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。
大学での青春とは、如何なることなのか。

大学に行くことは学ぶためであるという。
そうか。学ぶことは一生のことである。
いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。
一生涯辞書を引き続けろ。
新たなる知識を常に学べ。
知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

(中略)

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。
そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。
どの社会にあろう とも、よき友人はできる。
大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。
そんな思い上がりは捨てるべきだ。

楽しむために大学に行くという者がいる。
エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。
これほど鼻持ちならない言葉もない。
ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、
何のために大学に行くのか。

誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。
現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

中学・高校時代。
君らに時間を制御する自由はなかった。
遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。
又、それは保護者の下で管理されていた。
諸君は管理されていたのだ。
大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。
無断欠席など、会社で許されるはずがない。
高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、
自分ではなく他者なのだ。
それは、家庭を持っても変わらない。
愛する人を持っても、それは変わらない。
愛する人は、愛している人の時間を管理する。
大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

(中略)

悲惨な現実を前にしても云おう。
波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。
荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。
自分の夢が何であるか。海に向かって問え。
青春とは、孤独を直視することなのだ。
直視の自由を得ることなのだ。

大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。
自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。
流れに任せて、時間の空費にうつつを 抜かすな。
いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。
くそまじめな男になれ。
一途な男になれ。
貧しさを恐れるな。
男たちよ。
船出の時が来たのだ。
思い出に沈殿するな。
未来に向かえ。
別れのカウントダウンが始まった。
忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。
愛される存在から愛する存在に変われ。
愛に受け身はない。

(以下省略)

 

本文はこちら。

http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 

ここでは「大学」を引用していたけれど、

私はこのメッセージを「人生」と捉えた。

 

自分が変わろうと思えば、その時点で「過去の自分からへの船出」であり

どんな立場であろうと、いくつであろうと、何回失敗しようと、

いくらでも旅立つことはできる。

 

成長するために、今生での「生」を自ら選び、生きている。

そして、いつかは、誰しも、突如として、終わる時が来る。

その時がくるまで、何回でも旅立ちのチャンスはあり、トライ&エラーを繰り返す。

その経験こそが、今生にいる意義なのだ。

 

魂の成長を経験するために、今生で生きるのだ。

 

「人生という豊潤さ」に旅立つ人へ

地の底から説く、力強い、贈る言葉

比較と促進

人は比較する生き物であり、

比較することによって自己の成長を促す事ができる

 

※※※

 

出会いから比較はしてた。

常識枠をベースにして考えれば、嫌でも自分に劣等感を感じてしまうので

距離を置いていた。


でも、常識枠という概念を外して

自分で自分を築き上げる、という考え方を理解したら

むしろ会うたびに、わくわくする対象になっていた。

「自分」の人生楽しんじゃってる人、だから。

 

距離が近づくにつれ、気づいたらどんどん視点がズレてきて、

わくわくする反面、自分が苦しくなってきた。

比較しちゃったんだな。元に戻ってしまった。

いや、自分の弱さを相手のせいにすり替えてしまった。


また、自分に引きずりこまれたらしい。

そんなときは!自分から一歩離れてみる。

 

「自分が変わろうと思って進んでいたはずなのに、停滞しているように見える。

けれど、それは螺旋階段の上階から見える景色であって

真横からみれば、少しずつ昇っているのだ」

 

そうそう、

私は少しずつ、着実に、前を歩んでいるのだ。

 

自分が望む「楽しむこと」を体験するために

今生にいるのだ。

私の「人生体験ツアー」、

ツアー名は「楽しむことを学ぶ」に参加中なのです。

 

なので。今一番楽しんでいることは。

大切な人と一緒に過ごす時間が何よりも楽しい!

 

人を好きになる気持ちを持つことが、こんなにもエネルギッシュで、

内側からどんどん力が溢れ出て、何をするにも楽しい、

そんな相手と一緒に会話をすることが楽しくってしょうがなくて、

一緒に料理をして、おいしいご飯を一緒に味わうことが嬉しい、

思いが重なった時が一瞬でもあれば、じんわり、深く拡がる、しあわせ。

 

それが今、自分が望む「楽しむこと」を味わうことなのであれば、

それが今、相手をとても大切だと思うことなのであれば、

相手の反応次第で、いちいち自分が傷つくことくらい、実はどうってことないのだ。

 

好きだと思う気持ちが大きくなればなるほど、

相手と違う部分が、よりハッキリ見えてくるのはしょうがないこと。

自分の思いと相手の思いの深さに差が出てしまうのもしょうがない。

毎度のことながら錯覚してしまうのだけれど、自分と他者は同じにはなれない。

 

その差異に気づいて、傷ついて本心から隠れて、相手から離れて行っても後悔しか残らない。

自分の受けた傷の大きさは、自分の受け取り方次第。

見方を変えればいいだけの話。

 

自分の受けた哀しみだけにフォーカスする方が楽ちんなんだよね。

「なんでわかってくれないんだ?」って相手のせいにできるから。

それって、他者を思いやる事を放棄して、停滞してるだけだ。

 

そうじゃなくて、そんな時こそ自分が相手にした対応を考え直してみて

相手をより思いやって、相手の立場から見える視点を考えてみる。

そして相手と自分の調和をはかれるようにどんどん試していけばいい

ダメだったらダメで、違ったアプローチをかければいい。

やり尽くして、それでも合わないようだったら

180度方向転換して、次に進もう。

 

それと同時にあの人以外に自分が楽しいと思えることを

どんどん探求していこう。

 

あの人がどんどん楽しんでいるから、触発されて前向きになれる。

そんな人と出会えた事が、本当に運がよかった。

そんな人種の人達ともっと出会って、彼らを通したフィルターから、

自分一人では発想できない楽しい事を発見したい。

映画のように。

※※※

 

私の、今生における「人生体験ツアー」の内容は

「自分で選択する意思」により、あらゆるコースに変容し

選択基準はひとつに囚われず、「楽しいと思うこと」を

対象に合わせて柔軟に、しなやかに、伸びやかに全うすれば

それが望む未来への最善で最短の道なのだ。

 

自分が良いと思うものを選び、

自分が信じることを大切にして、

他の誰かの承認を求めることなく、

自分が思う幸せを味わっていくことで、

自分が心から望む日々をつくっていくことができる。

 

心の奥底から湧きあがってくるような喜びを、たくさん体験していこう。

色んな人と比較して、自分ももっと楽しみたい!という欲求をかきたてながら。

自分の人生、自分が楽しんだもの勝ち! 

現状確認

大切な人のブログを発見して見てしまったものは

その人の日記を勝手に見る行為と一緒なのだろうか。

 

まぁ、一般公開されているのだから、見てしまったのはしょうがない。

 

ある程度予測はあったけれど、一緒に過ごした時間を

自分の存在を消され、創作して公開してあった事実は正直ショックである。

その程度の存在だったのだ、と改めて事実を突きつけられた。

 

※※※

 

私から見えるその人は自信に溢れ、目の前の事に対して楽しみながら、毎日を積み上げている。

ベースラインは似ているのに、発想の自由度、選択肢の多さ、超前向き思考と軽いフットワークに惹かれた。

 

しかしブログを辿ると、置かれている環境からくる悩み、

その時々で下さなければならない決断を迷い、後悔しながら、

でも丁寧に誠意をもって他者と交わり、

少しずつ、自分で「自信」を支えて、自分自身を積み上げてきたのだ。

確かに一般的に見たらタフネスに値するけれど、

あの人も、誰もが抱える、一人の弱い人間なのだ。

 

ブログを見ずとも、その人の性格と置かれている状況を鑑みれば、孤独だということはわかる。

その「自信」を支えるのは、一人ではしんどいのではないのかと。

本当は繊細な人なのに。

近くにいればいるほど、その繊細さが透けて見えて、どうにも放っておけなく、

疲れたら休憩しにくればいい、と受け止めてた。

 

どんどん距離が縮まってきて、一緒にいたい気持ちが強くなる一方で、

肝心の自分をさらけ出せないことに気づく。

 

…きっと、相手があの人でなくても「自分が惚れた人」に対しては、

最終的に同じ思いにたどり着くかもしれない。

「自分が惚れる人」=「“自分”の人生楽しんじゃってる人」

私にはそこまで没頭できる自分の世界観が確立されていないから、羨んで一歩引いてしまう。

本当は自分も同じ立ち位置で、お互いを応援しあって、笑い飛ばしあって、共に歩んでいきたいのに。

 

 

「自立ということは、依存を排除するのではなく、

必要な依存を受けいれ、自分がどれほど依存をしているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。

依存を排して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまう。」

 

河合隼雄 著 「心の処方箋」より

 

本当に一緒にいたい相手なら、今のありのままの自分でいいんですけどね。

お互いの長所と短所が相互補完し、相互依存できるのが本当に望む関係。

なかなか、自分を開けない。弱いなー、自分。

 

そんな中、相手から見える自分の存在位置を改めて自覚したのですが。

近づいた、と思ってもそれは自分だけの思いだった。

近づきたいと思っても、歩み寄れない自分の気持ちも浮き彫りになってしまった。

 

人の心などわかるものではない。

相手を理解しているなんて錯覚しない。

でも相手を理解する努力は諦めない。

 

ある意味、お互い似た者同士。

急激には変えられないけれど、でも変わるように行動する。

今はそんな自分も相手も応援しよう。

 

苦しみも悲しみも楽しみのうち、と自分の中へ収斂していければいい。

言葉

作詞家が意図して意味を込めた歌詞があり、深い感銘を受けた曲があるので備忘録。

 

What's It For

 

I'm not too sure that I can go much futher

もっと先に進んでいけるかどうかわからない
I'm really not sure things are even getting better

物事がよくなっていくのかすらわからない
I'm so tired of the me that has to disagree

否定し続ける自分自身に嫌気がさす

And so tired of the me that's in control

制御できない自分自身にもう耐えられない

I woke up to see the sun shining all around me

目覚めると太陽が私を照らす
How could it shine down on me?

どうしてこんな状態の私に太陽の光は降り注ぐのか


You'd think it didn't notice

あなた(太陽)はおそらく思うだろう(こんな状態の私を知らないから)
I can't take anymore

そんなもの(太陽の光)はいらない(もう我慢できない)
I had to ask myself

自分に問いかけなければいけない
"What's it really for?"

その本当の意味は何?

Everything I tried to do, it didn't matter

自分がやってきた事すべてが関係ない事だった
and now I might be better off just rollling over

今は流されていった方がいいのかもしれない
'cause you know I tried to hard but couldn't change a thing

なぜなら挑戦してきた事が変えられなかったことを、あなたは知っている
And it hurts so much I might as well let go

悔しささえも忘れなければならない

I can't really take the sun shining all around me

自分を照らす光が受け入れられない
Why would it shine down on me?

なぜそんなに明るく接してくるの?


You'd think that it would notice

あなたはもしかして知っているのか
I no longer believe

これ以上、信じられない事を
Can't help telling myself

自分自身に言い聞かせなければならない
"It don't mean a thing"

それには意味がない、と

I woke up to see the sun shining all around me

目覚めて光が降り注ぐのを見る
How could it shine down on me?

どんな気持ちで私を照らすの?
Sun shining all its beauty

太陽はその美しさを輝かせている
Why would it shine down on me

どうして私を照らすの
You'd think that it would notice

あなたならきっとわかっている(太陽は私を見透かしている)
I can't take anymore

これ以上我慢できない
Just had to ask myself

自分に問いかけなければいけない
"What's it really for?"

それは何のためのものなの?

 

 ※※※

 

早朝に似合うような澄んだメロディライン。

メロディと対照的な、人生の底辺でもがき苦しんでいる歌詞。

 

しかし先生が言うにはこの主題ともなる

"What's it really for?"

このフレーズには二つの意味があるという。

・今までやってきた事はなんだったんだ

・太陽の光は何なんだ

 

このフレーズ以外にも、二重に表現している部分が、歌詞のいたるところで散りばめられてる。

これらの布石により、題名にも二重の意味が含まれていることがわかる。

「太陽が照らし続けている」と歌詞の中でも繰り返し綴っている。

つまり

「今までやってきたことが意味がないなら、何故、太陽の光(希望)はあなたを射すの?」

と作詞家は同時に問いかけている。

 

ここからは独自の曲の世界観の解釈。

 

全てやり尽くした、自分はもうダメなんだ、

と思っていても、それはあくまでも自分の中での、暗い部分だけの世界であり、

それにしかフォーカスできない状態というのは、言い換えると自分で自分を締め上げている状態。

締め上げている自分に気づき、いったん緩め、自分を許してあげる。

そうすると自分と距離を置くことができ、自分が置かれている現状を俯瞰する事ができる。

暗闇の渦中にいたと思っていた世界は、活路を導く光があることを教えてくれる。

 

自分の価値観も盛ってしまったが、受け手により解釈は様々ということで。

そう捉えると、この澄んだ光のようなメロディラインが活きる。

陰を表す歌詞と、陽を表す曲が、ひとつに交わる世界観に感銘。

 

※※※

 

言語が英語なので先生の解説により、この曲の意味を知ることができた。

直訳ではわかりにくい、英語文化圏での表現。

文化がわからなければ、理解できなかった世界。

 

もちろん、言葉はなくても通じ合える。

しかし、必要な状況において、最も適切な言葉をもらった時、

その言葉は言霊となり、自分の中で生き続き、指針を作り、励まして応援してくれる。

生涯ずっと寄り添える、自分自身を支えてくれる拠り所にもなり得る。

 

もちろん言葉だけで全ては伝わりきれないけれど、

それでも一瞬でも重なる部分があれば、

それが自分の核心と共感できる部分であれば

言葉は他者とより深く共感できるツールなのだ。


What's it for? [GitS:SAC O.S.T 2] - YouTube

 

 

満開の桜の木から、春風と共に一斉に花びらが舞い散る姿を見ると

必ず思い出す一節がある。

 

カツラの木はー

毎年無数の、累計するとおそらく日本の人口以上の数になろうかと思われる種子を落とし、

この下にたくさん発芽するのですが、

親になれるのは、そのうちせいぜい一本か二本でしょう。

植物は、そして生物は、可能性がある限り、命のトライを続ける、

きっと全て死に絶えようとする、最後の最後まで。
 

梨木香歩著 「水辺にて」より

 

一斉に舞う花びらが、植物の種子にみえて、

風と共に潔く散っていく花びらを見る度に、

今まで在った「生」の意味はどこへいって消えてしまうのだろうか、

と固執していた時期もあった。

今ではその固執が時間とともに変容され、

それらは、どこかで、何かにコネクトして、次に繋がっていってるのだろう、と思っている。

散りゆく花びらを見る度に、遥か遠い昔から、時代の環境とともに変容しながら、

連綿と続く生命力、今を生き抜く植物のダイナミズムを感じずにはいられない。

 

 

先週、満開の中でのお花見をしながら、ふと思った。

電車で・車で・都心から郊外まで、至る所に溢れるピンク色の風景。

何故、日本はこんなに桜の木が多いのか?

 

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000129561

単純に古来から散りゆく花を愛でる為受け継がれているわけではなく

都市緑化計画の一環で、街路樹として適切な種類ということで植樹されていたそう。

でなければあれだけ至る所で目につくはずもない。

 

今咲いているソメイヨシノは戦後に植樹されたものがほとんどなので

現在の樹齢は60年前後が平均かな。

 

ソメイヨシノは若木の段階から花を咲かせ

江戸末期から明治初期にかけて観賞用として重宝された事をきっかけに、

人口交配され爆発的人気を博し、現在までの国民的人気を得たという。

 

ソメイヨシノは全て1本の原木から人工交配(添え木、接ぎ木)したクローンで、同じ遺伝子を持つ。

だから同じ条件で一斉に咲き出し、平均寿命も60年と一緒だそう。

(これにはソメイヨシノ特性や環境も関係あるようで、メンテナンスすれば100年以上もつこともある)

 

街路樹で一番多いのは秋のイチョウ、

二番目は春の桜、

緑化計画に則って植樹された街路樹。

 

都心にいても風土からくる四季の移ろいを五感で感じ、身体感覚として、

日本人としてのアイデンティティ無意識に身についているものなのだ

それは桜の花びらの儚さが人の一生を例えられているけれど

一瞬の力強さが色濃く刻まれ、遺ってゆき、次へと繋がっていくということ。

 

たとえその風景が意図的に植えつけられたものでも。

でも、

それすらも我々に受け継がれた遺伝子の一部かもしれない。

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ブログ開設

喜怒哀楽全て文章にして気持ちをまとめるツールとして、

気づいたこと、考えたことをアウトプットする練習帳として、

ブログを活用するに至りました。

 

平たく言うと、日記じゃん…。