人生という旅路へ

これを見た時、ヘミングウェイの「老人と海」と同じ感慨をもった。

絶望の淵から見える「生きる信念」。

最悪の試練と逆境に立たされても、人間は行動次第で敗北を勝利に変え、

人生に意味を見出すことができる、希望への道。

 

絶望の渦中にいるからこそ、新たな人生の門出を迎える人々へ「伝えたい」という思いが、

他者を突き動かすエネルギーに変わる。

 

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)
より抜粋

このメッセージに、2週間前、

「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。
その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。

しかし、 今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、
濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。
これから述べることは、あま りに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。
私は躊躇した。

しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、
どうしても以下のことを述 べておきたいと思う。
私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

諸君らのほとんどは、大学に進学する。
大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。
大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。
大学での青春とは、如何なることなのか。

大学に行くことは学ぶためであるという。
そうか。学ぶことは一生のことである。
いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。
一生涯辞書を引き続けろ。
新たなる知識を常に学べ。
知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

(中略)

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。
そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。
どの社会にあろう とも、よき友人はできる。
大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。
そんな思い上がりは捨てるべきだ。

楽しむために大学に行くという者がいる。
エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。
これほど鼻持ちならない言葉もない。
ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、
何のために大学に行くのか。

誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。
現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

中学・高校時代。
君らに時間を制御する自由はなかった。
遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。
又、それは保護者の下で管理されていた。
諸君は管理されていたのだ。
大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。
無断欠席など、会社で許されるはずがない。
高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、
自分ではなく他者なのだ。
それは、家庭を持っても変わらない。
愛する人を持っても、それは変わらない。
愛する人は、愛している人の時間を管理する。
大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

(中略)

悲惨な現実を前にしても云おう。
波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。
荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。
自分の夢が何であるか。海に向かって問え。
青春とは、孤独を直視することなのだ。
直視の自由を得ることなのだ。

大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。
自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。
流れに任せて、時間の空費にうつつを 抜かすな。
いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。
くそまじめな男になれ。
一途な男になれ。
貧しさを恐れるな。
男たちよ。
船出の時が来たのだ。
思い出に沈殿するな。
未来に向かえ。
別れのカウントダウンが始まった。
忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。
愛される存在から愛する存在に変われ。
愛に受け身はない。

(以下省略)

 

本文はこちら。

http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 

ここでは「大学」を引用していたけれど、

私はこのメッセージを「人生」と捉えた。

 

自分が変わろうと思えば、その時点で「過去の自分からへの船出」であり

どんな立場であろうと、いくつであろうと、何回失敗しようと、

いくらでも旅立つことはできる。

 

成長するために、今生での「生」を自ら選び、生きている。

そして、いつかは、誰しも、突如として、終わる時が来る。

その時がくるまで、何回でも旅立ちのチャンスはあり、トライ&エラーを繰り返す。

その経験こそが、今生にいる意義なのだ。

 

魂の成長を経験するために、今生で生きるのだ。

 

「人生という豊潤さ」に旅立つ人へ

地の底から説く、力強い、贈る言葉